昭和41年08月01日 月次祭
(出だし途中から)
そしてその、茹だる様な暑さの中に、茹だってしもうたらおしまいで御座いますから、この暑さの中に暑さを感じん程の心の状態、頂きたいもんだと思います。それは、何の稽古でも同じで御座いますけれども、わざわざ暑い峠を選って暑中ね、暑いうちに、猛稽古をなさいます。寒い時にも、寒い時の峠を選って寒中の稽古が、こりゃもう何の道でもそれがなされております様に、信心も矢張り是が大事だと。春とか秋とか、暑くもなからなきゃ寒くもない。
本当に何ともいえん花がのみずの時期に有り難いと感じるのは、あの誰も同じ。平穏無事。本当に自分達の様に幸せなものがあろうか。ただ云う事かです住まいにも、何処へも立派なお家に住まい。より良いものを着せて貰うて、本当に自分は幸せだとこう、まぁ思わん者はありますまい。けれども、それとは例えば反対、例えば人間の中の暑いとか寒いとかと言った様な中にでも、暑さを感じんで済む様な、又は寒さを感じんで済む様な道があるとするならば、一つそういう道を体得しなければならない。
この8月の1日を、奉仕させて頂いてから思うんです。もうめだってすいければ良いですよね皆さん。例えば皆さんよかちから、ひとつどげんざんどなさって下さい。ほりゃおきながひとにすいか、すいかもいとわないっちいうんです。いうなら寒さも暑さもいとわないという訳なんです。だけの矢張り、勇猛心というものが信心には必要。おれで私共が寒さに負けてちぢこもってしもうたり、暑さに負けて茹だってしもうたんでは、ね信心の値打ちがない。
私は有り難いと思います事はね、こりゃ椛目のご信者さん方にそれを、特にいえると思うんですね。というのは、これは私共でも過去の信心を思うて見て思うんですけれども、成程一生懸命の信心をさせて貰ました。おかげを頂きたいと思いましてね。ただ段々とそのおかげという所から、本当にこりゃこめや徳にも、その頂かなければ、幸せは頂けんと思うて。お徳を頂きたいと思うてもう一生懸命信心修行させて貰ました。
あぁでも中々こうでもなかろうかもう本当に「わが心からも練り出せ」と仰るが、もう練り出されるだけは練り出したと言う様な感じで、一生懸命信心に取り組みました。所が中々おかげは受けられなかった。それでも矢張り段々おかげを頂いてまいりましてからね、今日のおかげを頂いておる訳で御座いますけれども、椛目の方達はそれを見て、又は目の前に聞いておいでられる。是は百年前の、という話しじゃないのです。つい私が、ついこの頃までそれを感じて来た、又私が体験させて頂いた。
又は一通りおかげを受けられた皆さんが、現にここにこうしておいでである。是はもう、私は椛目のご信者さん方は特にそれが言えると思うのです。ね、もうあぁしてこうすりゃおかげになる事は分かっておると云う事なんです。ここで一つ踏ん切りを付ければおかげを受けられると言う事は分かっておると云う事です。ここでいっちょ頑張らん。先生が言われよる様な、あの様な信心が出来りゃです、おかげを頂ける事が分かってる。私共は随分お話も頂いてまいりました。
もう本当にもう、遠いも近いも言わずにお話聞きに参りました。ところがそれは絶対なものじゃなかったんです。その証拠にはです、お話しをしておる先生がです、おかげを受けておられなかったのですから、本当じゃなかったんです。いかにも本当の様に言われるもんですから、本当にその言わば通り、いや以上の信心させて頂いても、おかげは受けられなかったんです。本当ですよ。所が、椛目の場合はそれがないでしょうが。こちらの信心がです、こういう信心にならせて頂きゃおかげが受けられる。
こういう風に改まって行きゃお徳が受けられる事は分かっておるのです。その点椛目の方達は強いんだと。躊躇する事なしに、そこんところの踏ん切りが出来さえすればです、皆さんがもう直ぐおかげが受けられるのであり、お徳の受けられる道にでる事が出来るんだと言う事です。 それだけ皆さん、本当に私、本当にそうだと思うて下さらなければいけないと思うですよ。どうでしょうか。言うならば、探り探りの信心ではないと言う事。もうここにはっきりおいされておると言う事。
こういう信心すりゃ、あぁいう信心すりゃ、こう改まっていきゃ、こういうあり方にならせて頂きゃおかげも受けられるお徳も受けられるんだ、という事が。椛目の方達ははっきり分かっておるけれども、そこに例えば踏ん切りが、付いていないというだけの事ではなかろうかと思う。例えばなら私共はその事を二十年前に、もし椛目で現在私が言うておる様な事を教えられたら、もうそれこそ天にも登る思いでその事を行じたでしょうね。間違い絶対無い。間違いないと言う事であります。
まぁあの時分の事を、思いますとそう思うんですね。やはり暑さも寒さも感じなかった。今日のお月次祭を、奉仕させて頂いてから、いよいよそれを思います。まぁいよいよ暑さも峠だ。この暑さに負けず。茹だる様な事なしに、本気でやるぞという信心させて貰うて、その暑さの中にもですしるしいというか、暑さの中にも有り難いというか、そういうおかげを頂かせて頂くためのここ一番本気でおかげを受けなければならん。それこそ垂下もいとわんという。
修行にならせて頂かなければならん。今朝からの御理解に御理解第一節。「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」と。「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」と。私共は目が覚めておるようであって覚めておらん。言うならあぁ眠うしてこたえん、もやっとかっと目を覚ましておる様なもの。ここにはっきり一つ目を覚まさせて頂いて、いうならば真っ暗な所から。
パッと一遍に百燭光が点いた様な明るさを、自分の心の中に頂かせて貰える所のおかげを頂きたい。信心をすれば誰でもお徳が、御神徳が受けられる。信心をすれば誰でもが御神徳を受けられる。しかもみてる(尽きる)と言う事がないと、御理解第二節に教えておられます。それならここにお祭りをしとる、お参りをしおる百名なら百名の方がです、椛目のおかげを頂きよりゃ誰でも御神徳が受けられるか。
というとそうではない、と言う所にです、信心をすれば誰でもお徳が受けられる、みてると言う事がない。と仰るその事がです、なら教祖の神様が嘘仰っておるという風に思わずにです、そんならそういうお徳の受けられる信心とはどう言う事か。ん、お参りしよりますと。もう月次祭たんびに、欠かした事はありません。という信心ではまだ進まないそれを、だというならば、信心じゃない様に言うておられる。
昨日の御理解に「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理にあう信心をせよ」と仰る。氏子は全部神の子だと。神の氏子だと共言うておられる。そこで私達がです言わば万物の霊長としての値打ち。人間のいわばお互いこうやって、人間の姿形をしておるから万物の霊長というて威張っておる訳にはいけん。皆の思いは万物の霊長としての値打ちが何処にあるのか何が出来るか。人徳も備えずしてから霊長とは言えん。
そうでしょう、いわゆる人間の面被っとるだけなんだと。信心させて頂いてです、神様が求めたもうのは、人間が万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をさせて頂いて、霊長としての値打ちを作って行けという事なんだ。人間は神様の氏子である。皆がその様な生神、この方の事を生神、生神というけれども、この方ばかりが生神ではない。皆も此の様なおかげが受けられる。この方がおかげの受け始め、皆も此の様なおかげが受けられる、という事を仰っておられる。
生神様になれれるものを持っておる、だけでは駄目だ。それが生神様として、成程生神様としての、やはり力というか、光というか、そういうものが発揮出来て初めて、神の氏子としての値打ちというものがあるのである。人間の値打ちというのはです、私はそうだと思う。人間万物の霊長としての値打ちという。人間としての値打ちというのは、矢張り神徳を、身に神徳を受け、又は霊徳を受けさせて頂いてです、おかげを頂いて行くという事が、神様の仰っておられる所の、誰でもおかげが受けられると仰る。
いわばそう言う事に、そういう願いの元に信心が進められ、ここには信心の、そういう意味で稽古に通うて来るという人達の上にです、仰っておられるのではなかろうかと思う。何千何万、どれだけの沢山の人達が、お道の信心を頂いたか分からんけれども、あの人はご神徳家だご霊徳家だという人は、本当に数えるしこしかない。誰でも信心するからには矢張りお徳も頂かれ、霊徳も受けたい。
ですから、まぁ一時一生懸命信心をさせて貰うて、おかげを受けたいと思うて一生懸命信心をすりゃ、あぁでもなかろうかこうでもなかろうかと。その中のほんの僅かな人が、まぁそこの所をおかげを頂いておる。辛抱し抜いているそこん所をです、私は椛目では皆さんは、椛目の人達は大体においてそこんところが言えると。手探り信心ではなくてです、こういう信心をさせて頂ければ、おかげを頂く事は分かっとるけれど。こういう信心させて頂きゃ、お徳が受けられるんだと言う事が分かっておると言う事。
そうでしょうが皆さん。そこんところに私共が踏ん切りを付けない。元気な心を出さない。暑けりゃ暑いでもうそれこそ茹だってしまう。そうでしょうが。茹だってしもうとるでしょうが。そんくらい寒い、ちじこまってしまってるでしょうが。もう手も足も出らぬといやもうくうとなってしまう。そこのところをです、寒さも感じない、暑さも感じない程の生き生きとした心を頂かせて頂く為に、私は修行がいるとこう思う。
本気での矢張り修行をさせて頂かなければならん。その修行も、手探りの修行じゃない。椛目で今教えて頂いておる、その修行をです、本気でさせて頂く事になるのである。「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ますという事。目が覚めたらね、今まで暑いと思うておった事が、暑くなくなって来るって。そうでしょうが。今、心の中が真っ暗であった事が、一遍に百燭光が点いた様な明るさを心が頂く事が出来る。
その為には、それこそです、腕こまねいてじっとそれを考え抜いておるだけであったり、又は茹だっておったり、ちじこまっておったんでは、目は覚めません。8月の月はいよいよ祈願祭の月で御座います。小倉の初代が、是は九州の小倉の桂先生の所のお手続きを頂いておる教会だけが、現在矢張りこの祈願祭というのを夏の間になさいます。椛目ではいたしません、親教会が御座いますから、親教会の祈願祭はもう本当に椛目の祈願祭と言う様な気持ちで、なら私は思いを込めます。
ですから私共祈願祭がないから、例えば親教会の祈願祭に参拝のおかげを頂いて、そして、その祈願祭にあやからせて頂いて、それこそ本気で汗を流させて頂く所の大祈願をさせて頂きましょう。それこそもう、汗の流れるような。あんまり大きな声ば上げてから、大祓いあげよると、汗ん出るけんそうっとあげよる。もうこげなこっちゃいかんです。もう腹の底から、もう汗の流れよるか流れよらんか分からん位になるまでです、熱願をかけさせて頂かなければいけない。
そこに、本気での修行精神、いわゆる暑い中にも飛び込んでいこうとする。いわゆる寒稽古とか、暑中稽古とかと言う様なものがです、何故わざわざその必要があるかというと、矢張り、暑い時には茹だるのであり、寒い時にはこごえてしもうてから稽古を怠る様な事になるから、その暑い中にでも寒い中にでも。それもそれこそ、思うてもしないところの勇猛心を奮起こさせる為に、あの寒中の修行というものがある。暑中の、暑いさかりの修行が、私はあると思う。
信心においてそのものね、昔はまぁだそんな人がありましたよ。もう、田の草取りにはとても暑うして行かれん。そういう時期を選んでです。うちで昼寝する時間を、お参りの時間に当てては。言う様な修行しておった方達があったんですけれども、この頃はやはり、皆さんがやっぱり暑い時には家の方で、やっぱり茹だっておられるじゃとこう思う。それも何時もとは言わん、この8月の月を、神様はそういう修行を、私共に求め給うておられる様に思う。
一つ皆さん、どうぞ、自分の心の中に、今、天地の開ける音を聞いて目を覚まさせて頂きたい人は、ね(※切れ)その起きらんならんばってん眠か、あの時には実に苦しいです。それをお互いがならもう本当に、もう迷わず。矢張りそこんところをひとつ電気を点けてパァと目を覚まさせて頂いて。そして、今日は涼しい中に御用をさせて頂こうと言う様な元気がでだすと。又それこそ勉強なら、勉強が身に良く入る様にです。信心もそこんところが大事じゃないかとこう思うのですね。
もういよいよ、この3日。明日、明後日が夏のご大祭が御座います。皆さんどうぞご案内を頂いて帰って下さい。何時ものように久保山先生のところで揃うてから、お参りさせて頂きたいと思う。ですから一つ本気で一つ、もう一生懸命の、熱と仰るその。お祭りだけを頂くじゃいけませんけれども、神様の、桂先生の言わば祈願というのが、今にそれが脈をうっておるそれが私共椛目の信心をさせて頂いておる者もそうである。しかもそれが、小さい願い事の為のものではなくて、いわゆる。
今、天地の開ける音を聞いて目を覚まさせて頂けるようなおかげを頂く為に、そういう信心をさせて頂きたい。神様は椛目の方達にですね、私は頂いた。特に椛目の方達はとこう言う事先ほど申しましたが、皆さん本当にそうは思われませんか。私が只今申しましたように。椛目ではですね、手探る事はいらん。もう本当に本気になって、言わば勇猛心を出して、暑い中に涼しさを。寒い中にでも暖かみを感じる様なですね、信心さえさせて頂きゃおかげは受けれる事も。
徳が受けられる事も、その事が言わば、今天地の開ける音を聞いて目を覚ます事の出来るおかげの頂けると言う事が、はっきりしておるので御座いますから。例えば昨日、あそこへ、もう百名、もう以上もあったでしょうかね。現場で除草のおかげを頂いた。とても一日では済むまいと言うとったのがです、もう私は午前中。12時頃、12時ちょっと過ぎに参りました時には、丁度お昼食でした。もう驚いた事にはもう、あれだけのその草がもう、綺麗にもう取り上げられてしもうておったと言う事です。
そして、午後からまた整地をなさったそうですから、もうそれも綺麗になったという、私も見に行っておりませんけれども、そう言う事で御座いますけれども。昨日一日御用を頂かれた方達がどうだったでしょうか。本当に神様のご守護の中に神様のお働きの中に、いや神様が先頭に立ってこの事だけはなさっておられるなぁと、言う様なですね、ものを感じて来られた事であろうと思う。あの前の日まではあんなに17日間も炎天が続いたそうで御座いますねどの辺りでも。その18日目に椛目が丁度秋永先生が。
前のその前のお月次祭の時に、その事のお届けが御座いました。それで私は31日の一番、もう月末でもあるし、ちょっと思ったんですけれども、そのお届けがあってからお願いしましたら。あん時に先生何か「チャンス」と言った様な事を頂いておるですかね。 もう時期だから、時期が来ている。あの時期だからと云う様な意味の事を頂いたんです。だから、それなら31日の日に、所がもう本当に前の日であってもいけない、言わば今日であってもいけないト。
言った様なですね、おかげの中にもう一日中が、その曇って暑くもない。勿論夏の事ですから、暑いですけれども、爽やかな風も吹いておるしですね。それからもう、その直射を受けるような、太陽のひどい、んならその暑さもない中に、いわゆる子供も年寄りも混じっての事で御座いますから。もう本当に有り難い中に汗水を流されたんですけれども、汗水流しようが良かった。神様の、矢張りこの日だけはこう言う風にして下さっておるんだと云う事を、まぁ感じられた事であろうとこう思うんです。
いうならばです、椛目の方達はあぁいう祈りの中に何時もあるという事なんです。是は先日でした。四、五日前でしたからね。ここであのどっかの自動車がですね、この塀にぶつかった。この、それがやっぱ居眠り運転だと。もう向こうから見ておった人がもう、ものすごい勢いで通り抜けたそうです。何か恐くなる様にして、通りいきよった。それがその、心のくじそれからあの、下駄箱の向こうのあそこへ、ぶつかったのがバーンと反動でですね、向こうに田ん中へ飛び込んだ。
もうあの丁度6時頃、5時か6時頃の間だったと思うんですけども、一番車の頻繁な時ですね。ようあれで、その車もあの時通らんで、ぶつからなかった事だと。もうちゃんとそれこそ、座布団引いて座っとるごとして、座ってましたよ。本当です。なら運転手さんも、どうもせん。もうそりゃびっくりして青はなっちゃおりましたけれどもね。あれでもう、もうそれこそどうもしないです。私丁度風呂入っておりました。そりゃ大きな音がしました。それからその自動車がここへ飛び込んだんです。
そしたら家んそこの下駄箱の所こんな、ぼうとの方へこう出て来ておったそうです。それをんなら私達が2、3人で向こうへ押しやってから、まぁ今あの位にしてあるですからまぁ壁がこう外れて、中がちょっと折れ取るんじゃないかとこう思うんですね、だから。まぁガラス一枚割れずにおかげ頂いております。公子さんあぁなってぶつかってから、もう自動車事故で死なっしゃった何て言うなら、どんこん出来んわけですね。私直ぐあの風呂から出てから直ぐその事御礼を申させて貰ましたんですよね。
そしたら丁度その時に、あのお玄関の入り口に大きなあの関さんが鬼百合の花を持って来て御座いました。お供えに。それに、うちのあの、長女が、あのすすきをね、こうあしらって、投げ入れ風に活けて御座いました。それを頂くんですね。ほんに有り難い事だと。秋永先生があぁいう事故に会われてから、2ヶ月間になりますね。十回もう十の指を数えるだけ丁度その事故があった。一番最後が久富国雄さんの、これも又正面衝突で、週一まぁ退院のおかげを頂きましたけども。
もう自動車はもう全然修繕もきかない程にじゃげておる。いわゆるの中にです、いわゆる無傷状態でおかげを頂いておる。そういう方が十回も続いた。本当ただ本当に有り難い事だとだなぁと。おかげを頂いてから大難を小難。または無難の様なおかげを頂いておると云う事がです、有り難い事だなぁばっかり言うておった。ところがね、神様はその時にです、その事を教えて下さったんですよね。矢張りあの鬼百合というのは、鬼というのは力の強いのだからね。
結局花は、信心の喜びの花でしょう。いわゆる花の力と言う事だと私は思うたんです。大体を言うならばです、いわゆるあの穂そすすきのお知らせは。あの幽霊の正体みたり、枯れ尾花。というあの御理解をよく頂きます時に、あのお知らせを頂くんです。本当に怖い様な事になるのである。もう迷うたにも成り兼ねない様な事になる様な事をです、椛目のお広前の力がです、それを何時もむじゅうに又は小難におかげを下さっておるという事なんです。そこで私は思うたんです。ははぁ是は本当におかげを頂いて。
広大なおかげを頂きました、だけではいけないと言う事。そういう力の中に、そういう力の祈りの中に、皆さんがあると言う事なんです。私が今日も申しました様に、皆さんはですねこういう信心させて貰や、こう改まらせて貰や、こういう風に信心の迫力さえかけて行きゃ、おかげが受けられる、徳が受けられる事はもうはっきり分かっておられる。けれどもまぁだ茹だっておられたり、縮こまっておられたり。まだそこに踏ん切りが付かんでおるだけの事。
そこで例えばそんなら、めぐりのお取り祓いを頂いたり、お気付けを頂いたりする中にですその中にも、只今申します様なおかげを頂いておる。椛目の一つの力の中にお互いがあると言う事。そういう祈りの中にあると言う事。なら昨日の例えば奉仕なんかでも矢張り、椛目のそうした祈りの圏内の中に、あぁいう御用が皆さんお出来になられたんだと、こう私は思うです。本当に天地が自由になる仰せられるが。成程椛目には天地を自由にする程の言わば、力があるんだと言う事なんです。そういう力の中にです。
そういう力のこもった祈りの中にお互いがあるんだと。皆がどうぞおかげを受けられんなら、修行不足であると言う事になりゃせんでしょうか。ですから、この暑い時に。いうならこの寒い時に。一つ暑い寒いを言わんで済む様な信心、修行を一つ本気で踏ん切りを付けたらどうかと、言う様に8月1日には、急き立てられた様に思うんです。どうぞ皆さん、暑い中に茹とっちゃいけません。その事がきついからじゃないです、もうその後の清々しさ。修行の後の。
いわば今まで、日が短いのであるとばってんその時間が返上する、と言う位な気持ちでです、神様に打ち向かわれるおかげを頂く。そういう祈りを一つにして、んならこの3日の、午前11時から親教会の祈願祭が奉仕されます。勿論、善導寺教会の祈願祭で御座いますけれども、私共もです、言わばどうでもおかげを受けなければならんので御座いますから、本当にもう一つ親先生に椛目の祈願祭をして頂いておる様な気持ちで、私共はお参りせて頂きたいとこう思うんです。
そして一つ本気で、暑い中に一つ一汗流させて頂こう。そして、桂先生のご一生を継承させて頂く。継がせて頂こう。そしてそれが本当に、祈りがです、祈りになって行く成就のおかげになって行く様なおかげを頂かせて頂きたいと、言う風にまぁ思うので御座います。どうぞ、一つ本気で発心。本気で踏ん切りを付けさせて貰う。今朝から私皆さんに申しました。改まると言う事でもです、なら本当にこの人があそこを改まったらどんなによかろうか、と思うけれども私は言われん。
だからその人が、先生私はどこば改まったら良ろしいでしょうか、ちゅうごたる風に聞き来るでん、するならば教えてやろうばってん。中々こっちからは言われんて言う話をしたんです。そしたら今日はもう、早速その効果があったんですね。もう何人もの方がここにお届けなされるんです。先生私は何処ば改まったなら良かでしょうか、もう真正面きって言われるなら、そりゃどうも言われんですね。こりゃ不思議な事です。ですから、私はあの、そりゃ勿論形のこと。
ですからもう本当にその辺の所をですね、もうその私もそりゃ誰にでも聞きます。私は何処ば改まったら良いかなぁと。けれども決して、中々ほんな事は言うちゃくれませんものね。ですからやっぱり自分で、自分ん心の中に本当に自分んだけしか知らん。神様だけしかご承知でないというです、さっきから申します様に是を改まり、是を取り除きゃおかげの頂ける事は分かってるそれにです、一つ本気に力を入れさせて頂いて、おかげを頂きたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。3日の日はどうぞ、皆さん揃って、皆さん御用が出来られますように。お願い致します。